知財実務一筋に
特許庁において審査審判30年勤め上げた後に、弁理士登録をしてはや32年。必要にされたり、頼られたり、承認されたりと、前向きの精神状態でつながる経験。弁理士とはいい人間関係に恵まれる職業なのだと、繰り返し気づかされる62年の知財の道。今も現役を続けており、この豊かな時間がまだ続いてほしいと願っている。今、自伝的随筆を執筆中である。弁理士のことを若い人に知ってもらおうとしている。知財の道に進む人が一人でも多いことを願っている。
以下は、執筆中の原稿から抜き書きしたものである。
1939年に中国の大連で生まれ、1946年小学校1年生の時に両親の故郷である木田郡平井町(現三木町)に引き上げてきた。東京の大学(お茶の水女子大学理学部化学科)に進学したので香川県には12年間住んだことになる。平成4年に弁理士になって仕事は東京を拠点としていたが、平成5年に発明協会(香川県支部)の発明相談員になった。特許庁には香川県関係者の集まりである「玉藻会」があり、その会に属する先輩弁理士はその会で「化学系弁理士がいないから帰っておいでよ」と声を掛けてくれた。
当時、林町の発明協会からは月1回相談会に呼ばれ、近隣のA企業の研究所所長、高分子ができる弁理士を探すB企業の特許部長、侵害訴訟が起こるかもしれないとC企業の部長代理(現社長)はじめ多くが相談者として来てくれた。また、弟の仕事関係でお世話になったD企業の社長からサービスマークのことで相談したいと、あっという間に香川県の仕事がいっぱいになった。
一人弁理士としてのんびりと仕事をするつもりで小金井市に事務所を構えようとしていた頃だった。のんびりとはさせてくれなかった。知財の世界は私を受け入れようとしている、と未来に希望を持てる船出ではあった。やがて、侵害訴訟の補佐人の仕事が複数件舞い込み、弁理士の当初約10年は無効審判と侵害訴訟に明け暮れた。平成15年度特定侵害訴訟代理業務試験合格後は代理人となって出廷した。
忘れられない思い出がある。やっと改築が完成した事務所の玄関の扉をたたく音とほぼ同時に二人の男性、C企業の創業者社長および部長代理(現社長)が入室してきた。玄関の上り框で靴を脱ぐと段差を一歩跨いだところで正座をして両手を前について前かがみに「先生どうかお力を貸してください」と頭を下げる。二人そろった美しい所作に驚くと同時になんて大げさなと、お手を挙げてくださいと近づく。香川県から朝一番の飛行機で来たそうだ。お二人とは、7年間の侵害訴訟及び無効審判をともに戦うことで、いつも尊敬の念をもって接することができ、決して深入りせずにそれでいて高い次元の精神でつながり合う関係を構築することができた。人にとって、幸福感を与える影響力が最も大きいのは「健康」で、その次に「人間関係」が続くと言われる。まさに、遅咲きの52歳の弁理士にとって「大事な人」となる出会いであった。
そして10年近く経った平成13年、発明協会香川県支部事務局長の産学官プロジェクトの特許戦略アドバイザーへの推薦につながったと思っている。平成14年から5年間「希少糖」プロジェクト(香川大学を中心とした産学官の連携)の特許戦略アドバイザーをつとめた。
ある日、香川大学の教授から農学部の研究室に呼ばれた。初対面の挨拶は弁理士であることを名乗ったのに対して、にこやかに名乗られ「特許というものが嫌いなのです。」が付け加わった。
有馬朗人元東大総長が「1つの特許は10の研究論文に相当する」と指摘したのは1996年のこと。その指摘を契機に大学の発明者の意識改革が求められたはず。だがそのメッセージは香川大には届いていない。研究者、教育者であるという意識であり、「発明者」であるといった意識は希薄である。教授もそうなのかと、でも後に深い意味を理解することとなった。岡山県に本社を置く知る人ぞ知る実力派企業の知財担当に同級生がいたことが、幸運にも教授の発明を特許へ繋いでいた。
研究、教育第一の環境のもとで、発明の実施化を目指すプロジェクトの行く手は厳しい。教授にはリエゾン活動で発明を発掘し出願する役目を担うアドバイザーが必須である。
まもなく「特許は大嫌い」の挨拶は、小柴昌俊先生の「何にも役に立たない」と重なるようになる。
小柴昌俊先生は「カミオカンデ」の創始者で、2002年ノーベル物理学賞の受賞インタビューで、「先生のご研究は我々の生活にどのように役に立つのでしょうか」に、「役立つ、役立たない、あんまり考えたことがない。100年経っても何にも役に立たないと思いますよ」と答えた。
やがて「特許は大嫌い」から教育、研究第一のメッセージを感じながら、代理人として粛々と、発明者に教授が含まれる国内出願100件余り、外国出願延べで同数くらいの実績を残す。
そして、2024年、新型コロナウイルスのパンデミックの収束、2年ぶりの対面での再会時に「私は特許大嫌いの人間ですが、須藤弁理士との特許は別物のようです。」をいただく。現在の内閣府プロジェクトの執行部は、これまでの20年間の経験(成功体験、失敗体験)を顧みて、尊敬に値する運営をしていると思う。弁理士の立ち位置も第1期プロジェクトとは変化してきている。
振り返ると、教授からは発明の技術ポイントをヒアリングし、発明提案書を書くためのアドバイスを行うことで、特許出願を活発化させ、出願した特許をほとんど登録させた。特許リエゾンに必要な能力はコミュニケーション能力である。第1期プロジェクト中の平成16年度~平成18年度には香川大学農学部客員教授に任命された。そのプロジェクトにおいて、希少糖が市場に受け入れられるための機能に着目した研究が特許出願の第1号であった。新規の機能を特定した「剤」クレームについては特許庁プラクティスに対峙して、権利化に苦戦した。
そんな時、新規の機能を特定した「剤」クレームについて審決取消の訴訟を提起する企業が現れた。ありがたいと思った。裁判所の求めに応じて企業の知財担当者が技術説明を行なったりして、ワンチームになって頑張ることができた。そして、機能性食品特許の審査基準を変えるのに貢献する審決取り消しの判決が得られた。平成21年(行ケ)第10134号審決取消請求事件(平成22年1月20日判決)である。
この判決を契機にして機能性食品特許の審査基準が変わり、新規の機能を特定した「剤」クレームは第1号出願を含めてすべて特許査定になった。
機能性食品特許の審査基準が変わったことは時期的に遅かったが、変わらないよりはましであろう。そのほか、国立大学が法人化され特許出願料をはじめ種々の手続きに掛かる特許印紙代が無料から有料に変わったこと、第Ⅱ期プロジェクトが採択されなかったことなどで、「希少糖」知財に係った人たちの苦労は尽きない。こうした苦労話を交えながら自伝的随筆を執筆中である。その中から一部抽出した。また、お目にかかりましょう。
弁理士 須藤 阿佐子